ヤカの感想

読書とかの感想と、ちょっとの雑記

水死 大江健三郎

大江健三郎の水死を読みました。

タイトルが水死。

 

主人公の老作家は、幼少期に見た父の水死イメージを元に、晩年の集大成として水死小説を構想する。そこに演劇関係者たちや家族が関わり、淡々と話が進んでゆく。

 

正直500ページ中400ページくらいが、主人公に関わる人たち(主に演劇関係者たち)が語るイデオロギーや、思想、考察、生活の話が多く、話がほぼ全然動かない。ぜんっっぜん動かない。

 

しかも読んでないし作中で語られない作家の過去作の話とかされる。わからない。作中で作られる演劇の中身はわからぬまま、登場人物がそれの内容や思想について語るためなんかすごく考えてて、情熱的ですごいな、あと金持ちそうでコネクションすごくて芸術家肌で頭良さそうだなーって思うくらいで、正直、かなりつまんなくて合わないかもこの本って思った。

 

しかし、何が言いたいのだこれは?という疑問は、中盤ぐらいから形を作り始める。繰り返し繰り返し出てくる彼らの目指すイメージの、離れた点と点が、彼らの淡々とした生活が、だんだんつながってくる。

なぜ老作家は水死小説にこだわるのか、彼の障害のある息子の行先、天才肌の舞台女優、彼らが作り上げたい森の伝承を元にした作品が、あー、なんでこの人たちがこういうのを作りたいのかなっていうのがぼんやりわかってきた時、水死という言葉と、暗い森の中のイメージを中心に、言葉にしづらい薄寒く激烈な感情が見えてきて、うっっっわ、ってなった。

 

似合う言葉がないが、気色悪さと儚さと情熱と死が混ざった感じの感覚で、この感じって混ざるんだ、400ページの退屈さはこのために必要だったのか、流石や…

となりました。

 

 

 

 

 

ここからは自分の考察なので、半ネタバレというか、もう少し具体的に喋るけど

 

 

 

はっきりと表現されてないけど、アカリさんもウナイコも、主人公も、他の人たちもすでにある部分が半分死んでいて、それは作中で、コギー化している…というか、森の一部を読み取るものとして書かれている。作中作を作り込もうとすればするほど、自らの中の森、死、コギーに近づいて行く。アーティストが自分の命を削ってものを作るのを集団でやってる感じ。

この作品の中の死はスイッチのオンオフみたいに、ゼロかイチかのものではなく、属性としてある気がする。人として、ある一部が死んでいる。この作品に出てくる人は、なんかそんな人ばかりだ。それは、神性を伴う透明なもので、一般の死のイメージとは違う。たおやかな水の中に骨だけが洗われている、洪水の中船で繰り出す、森の中に上がってゆく、という繰り返しでてくるあのイメージに近い。

 

ラストの展開はなんかもうウナイコに持ってかれた感が強いんだけど、ああいうやり方で一気に夢が覚めたように彼らの悪夢が終わったように感じた。それがいいことなのかわからないが。

なんか逆に捉えるとウナイコは死ぬ、というより殺された側の人なんだよな。だから長江先生とは違う。抗うし、表現することで死に直しをしたいからあそこまでのキャラクターになったのかもしれぬ。そしてだからこそ彼女は長江先生のファンなのかも。透明に死にたい。

殺されてしまったからこそ。

 

最後の方は教育、国、国家に対し反逆を企てて戦うんですけど、なんか収まり方がこれでいいんか…でもこれしかないわぁ…って感じで悲しかった。てか突然なぜその展開になる。大黄さんかっこよすぎだろ。

 

 

 

 

 

なんか最近は漫画ばっか読んでて、キャラクター視点でものを読むようになっちゃって、こういう作品を読んでもみる部分が変わっちゃったな。作者の方が言いたい部分はもっと違うし自分が読み解けないのだけど、やはり小説は小説でしか味わえないものがあるなぁと感じました。大江健三郎先生、すごい。

おわり。